masako taura
ピアノの魅力にひかれ、その魅力を伝えたいという思いを持って、ピアノ教室でのレッスンをおこなっています。
とはいえ、最初から「ピアノ大好き」「ピアノが一番」という子供だったわけではありません。練習をめぐり、親とぶつかったり、レッスンを休みがちだったりした時期もありました。
そして、その後の30年にわたる公立中学校の教師時代、のべ3500人以上の中学生との出会い。
それらの経験を生かしながら、3歳から70代までの生徒さんのレッスンをしています。
埼玉県立川越女子高校卒業 |
埼玉大学教育学部中学校教員養成課程音楽専攻卒業 |
兵庫教育大学大学院・教科領域教育専攻言語系国語コース修了 教育学修士 |
上智大学カウンセリング研究所 カウンセリング基礎コース修了 |
近所のお友達が、音楽教室に通い始めた幼稚園年長の時、母の「ピアノを習ってみる?」の一言で、私のピアノ人生は始まりました。
すぐ近所の先生のところにレッスンに通いました。まだ、家にはピアノもなくて、オルガンで練習していましたが、始めてみると、楽しくなって通っていました。
小学校2年生のとき、父の転勤で大阪に引っ越し、新しい先生のところに通うようになりました。「ピアノを買ってあげてください」という先生の言葉をきっかけに、念願のピアノを買ってもらいました。
でも、この頃、実は練習よりも遊ぶことが楽しくて、それがよく親子げんかの種になっていました。母からは「5時に帰ってきて、ピアノの練習をしなさい。」と言われていました。でも、遊んでいると夢中になって、5時のチャイムが耳に入らない。「なんで帰ってこないの!」「分からなかった。」「練習しないなら、やめなさい。」「やめたくない。」この繰り返しで、大泣きすることもよくありました。
でも、ピアノが嫌いになったわけではないので、弾くことも、レッスンに行くことも楽しくて、たくさんの曲を弾く経験をさせてもらいました。
父の転勤で、小学校5年生の時に、再び埼玉県にもどります。それからしばらくして、母が体調を崩し、長期間の入院を繰り返すようになります。
母の入院中、帰りの遅い父を妹と2人で待つ日々が続き、レッスンも休みがちでした。ただ、レッスンには行けなくても、家でピアノを弾く時間は、私にとって大きな慰めでした。合唱コンクールの伴奏も、大きな張り合いでした。
そんな私の状況を知っていて、「音楽を続けたければ、大学の教育学部に行って中学校の音楽の先生になれば良いんじゃない。」とアドバイスしてくださったのが、当時師事していた小山貞子先生です。その時、パッと目の前が開けた思いがして、そうしよう、と決心しました。
中学校時代の遅れを取り戻すべく、高校に入ってからは、ピアノも勉強も頑張りました。そして、当初の希望通り、埼玉大学教育学部中学校教員養成課程音楽専攻に入学できました。
埼玉大学で、松原正子先生と出会います。「響きを聞きなさい。」「指ではなく、響きでつなぎなさい。」「手のひらに響きを当てて。」と響きを重視する奏法を、熱心に指導していただきました。
先生の音は美しく、自分の音との違いは歴然としていました。あの響きを身につけたい、と思いつつも、どうしたらよいのか、つかみきれいないまま、卒業を迎えてしまいました。
埼玉大学では、音楽と国語の教員免許状を取得しました。そのため、大学卒業後、埼玉県の公立中学校の国語科の教諭として採用され、教職につきました。充実していたものの、忙しい日々の中で、松原先生のレッスンへの足も遠のき、ピアノは、思い出したように時々弾くだけになっていました。
公立の中学校に勤めていましたから、本当にいろいろな生徒に出会いました。のべ3500人以上の生徒と関わってきた中で私が感じたのは、「どの子も成長したいと思っている」ということです。
上智大学カウンセリング研究所の講座でカウンセリングを学び、一人ひとりの生徒に寄り添うことを大切に生徒と接してきました。
大きな転機となったのは、2009年。5年間の介護の末、母を見送った時です。「人生には終わりがある」と実感。その中で、「もう一度、ピアノを弾きたい。」と強く思い、ここから本格的に練習を再開します
大学時代からの私の大きな課題。「『響きのある音』とはどんな音なのだろう?」を求めていく中で、現在の師、大野眞嗣先生と出会います。大野先生のもとでロシア・ピアニズムの奏法を基礎から学び、響きで音楽を作っていく楽しさを味わうことができるようになっていきました。
同時に、演奏の場にも恵まれ、弾いていくうちに、「一人ひとりに寄り添いながら、ピアノを指導していきたい」という気持ちが強くなりました。
父が体調を崩したのをきっかけに、30年勤めた公立中学校を退職し、準備期間を経て、2017年、たうらピアノ教室を開設し、現在に至っています。