ブログ

2018.01.16

作曲者はなぜここにこの音を書いたのか?と考える

こんにちは。

作曲者はどうしてこう書いたのか、考えてみること。大切だとわかっていながら、ついついおろそかになっていた「楽譜をしっかり読み込んでいくこと」について改めて考える機会がありました。

 

昨日は、大学時代の恩師のところで、いろいろお話を伺ったり、私の近況もお話ししたりして、とても楽しいひとときを過ごしてきました。

先生ご自身が「デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲」をリサイタルでお弾きになったことがあるので、聞いていただき、アドバイスをいただきました。

例えば第3変奏曲の冒頭の音符の前についているアルペジオ、「これ、モーツァルトはどうしてここにアルペジオをつけたのかしら。ここから先、伴奏がアルペジオでしょう。これをさらっと弾くか。普通に弾くか。それともりっぱに弾くか。どうしたらいいのかしらね。」とおっしゃいます。

「モーツァルトはどうしてここにアルペジオをつけたのか」という発想で楽譜を見ていなかったので、「あ!」と思いました。

作曲者はどうしてこう書いたのか、どんな想いがそこにあるのか、それを楽譜からしっかり読み取ることの大切さ。

頭で分かってはいたつもりでしたが、それを実際に今弾いている曲で考え、楽譜を読み込んでいくことが足りていなかった。

ついついピアノの前に座っている時だけ、楽譜を見がちになっていた自分を省みてはっとしました。

 

今私は、9つある変奏曲の性格をどう弾き分け、さらに全体としてまとめていくのか、という構成について考えているところです。

特に後半をどうするか。第6変奏が短調で、四分音符と八分音符が多く、あまり細かい動きの連続はありません。第7変奏はトレモロが多用されて動きがあり、第8変奏はAdagio、最後の変奏はAllegroと書いてあります。

私は、第6変奏の短調で一つ一つの音を歌おうとするあまり、テンポを落として弾いていました。

一曲だけだったら、それでもよいかもしれません。

でも、「モーツァルトの書いたこと」に基づくと、最後の2つはあきらかに速度の指定があるわけですから、その前の短調でテンポを落としすぎないほうがいいかもしれない、と気づきました。

 

モーツァルトは、どうしてここにこの音を書いているのか?

今日から、楽譜だけを見る時間も作って、一つ一つ考えていこうと思っています。

2018.01.15

ピアノ(音楽)を学ぶとコミュニケーションにも役立つ

こんにちは。今日も寒いですね。

朝、ヒーターをつける前に温度計を見たら、室内で4.5度でした。二重窓にしていますから、これは相当な冷え込みです。

 

さて、「音楽を勉強すること」と、「話し手の言葉に込められた感情を理解しながら聞くこと」には関連性がある、ということをご存じですか?

ピアノを学ぶこと、音楽を楽しむことは、人生を豊かにすると昨日も書きました。

それだけでなく、コミュニケーションに大切な「話し手の言葉に込められた感情を理解しながら聞く」能力も高められるとしたら、人生をさらに豊かにする別の要素もはぐくまれることになりますね。

 

私は、中学校で教えていた頃、毎週末都内の大学に通って、カウンセリングを集中して勉強していた期間がありました。

そこで学んで以来、音楽を聴くときの感覚と、カウンセリングで相手の話を深い背景まで聞こうとするときの感覚がとても似ていると感じていました。

「ピアニストの脳を科学する」という本の中で、そのことについて述べられている部分を見つけたとき、「あ、やっぱりそうなんだ。」と納得しました。

これは国内外の脳科学の研究論文をもとに、ピアニスト(時にはもう少し広く「音楽家」)の脳がどのように働いているかを解説している本です。

シカゴのノースウェスタン大学のクラウス教授の研究結果をもとに説明していますので、ちょっと紹介しますね。

クラウス教授は、音楽家とそうでない人に、2種類の赤ちゃんの泣き声を聞かせ、そのときの脳幹の活動を調べました。1つは普通の声で、もう一つは赤ちゃんが何かを表現しようとしているときの声です。(中略)この2種類の声を聞かせた結果、赤ちゃんが何かを表現している声のときのみ、音楽家の脳幹は(音楽家でない人に比べて)より強く活動することがわかりました。つまり、感情を伝達しようという声に対しては、音楽家の脳は敏感に反応するということです。

余談ですが、この一連の研究をおこなったクラウス教授は、音楽教育は、言語能力や、他人の感情を理解する能力を発達させることに密接に関係していると確信し、アメリカで現在起こっている、初・中等教育から音楽の教育を減らそうとする動きに対して、反対の意見を表明しています。

残念ながら、日本でも、学校での音楽や美術の授業時間は以前に比べて減っています。

そして、本来芸術は「こういう役に立つから」ということで学ぶものではありません。

でも、目に見えない「大切な何か」がその中にあるからこそ、今まで様々な芸術が受け継がれてきました。

脳科学の発達で、今までは目には見えなかった「大切な何か」がだんだんと分かってきた。

この「音楽の勉強」と、「話し手の言葉に込められた感情を理解しながら聞くこと」の関連性は、その一例ではないかと思います。

2018.01.14

表現することを楽しもう

こんにちは。

昨日、この辺りは今年一番の冷え込みでした。

でも、空気がとても澄んでいて、朝、自転車に乗っていたら、群馬の山々がとても美しく見えましたので、思わず写真を撮ってしまいました。ただ、写真だと、遠くにかすかに見えるかな?くらいになってしまいました。ちょっと残念。

逆に、人間の目はすごいなあ、と思います。すべてくっきりと見えるのですから。

 

さて、皆さんは、どうしてピアノのレッスンを受けようと考えた(考えている)のでしょうか?

私のところに来ている生徒さんもいろいろです。

・この曲が弾きたいという具体的な曲がある。

・お母さんの影響で、楽器に触れているうちにやりたくなった。

・お友達の影響で。

・保護者の方が習わせてあげたいと思った。

などなど。

私自身を振り返ると、当時ヤマハのオルガン教室が始まったころで、お友達は幼稚園で習っていたけれど、妹がいるから親は送り迎えができない。だから歩いていける近所のピアノの先生の所に通うようになった。という理由です。

小さい頃だったので、自分が行きたいと言ったのか、母が習わせたいと思ったのか、その辺りもあまりよく覚えてはいません。

でも、習い始めてみると、とても楽しくて魅力的で、ずっと続けて現在に至っているわけですが、何か大きなきっかけがなくても、始めてみると楽しかった、ということはありますよね。

みんながみんな、プロのピアニストを目指してピアノを始めるわけではありません。

ただ、音楽に親しみ、音楽を楽しむ経験を積むことは、人生をとても豊かにしてくれると思うのです。表現する経験を経ると、同じ演奏を聴くのでも聴き方が変わってきます。

あまりかまえずに、迷っている方は、ぜひ、習い始めてはいかがでしょうか。また、今、レッスンに行かれている方は、ぜひ「音楽を感じて、表現することを楽しむ」意識をもってほしいと思います。

ピアノを通して音楽を楽しみ、豊かな人生にするためには、そこが大切だと思うからです。

 

2018.01.13

楽譜の版による違い

こんにちは。

同じ曲でも楽譜の版によって違いがあります。頭では理解しているつもりなのですが、ついつい複数の楽譜を比較して…まではせずに弾いてしまいます。

モーツァルトばかり練習しているので、たまには少し違うものも弾いてみたくなり、先日からショパンのノクターンを少し弾いています。

ちょうOp.9-2をレッスン中の生徒さんがいるので、まずそれから練習し始めています。

この曲は私も発表会や友人の結婚式などで何度も弾いたことがあり、頭に入れていたつもりだったのですが、それは全音版。今回パデレフスキ版を見ながら改めて弾いてみると、ところどころニュアンスが違って感じられる部分がありました。楽譜そのものはどうなっているのだろう、と比較してみました。

残念ながら、自分の思い込みによる間違いがいくつかありました。クレッシェンドのタイミングなど、細かい部分で思い込みがあったのです。やはり常に楽譜に戻ることが重要だという自分自身の大きな反省点です。

もう一点は楽譜そのものに実際に違いがありました。アクセントの位置がところどころで異なっています。これは何ヶ所もありました。

それから11小節目。この11小節目から12小節目にかけての音型は、この曲の中で2回でてきますが、全音版は11小節目後半にだんだん弱くという記号が入っています。パデレフスキ版は11小節目にはなく、同じ音型が19小節目にはついています。

32小節目のオクターブの部分。ここが全音版ではCes(ド♭)からB(シ♭)になるところにかけて、段々弱くするように書いてあるのですが、パデレフスキ版ではその記号がありません。

これでは、ニュアンスが違って感じられるのも当然ですね。

全音版の新しいショパンピアノアルバムの前書きには、ペータース社版をもとにしていること、それから「これらの版を参考として比較、研究しながら学習していくことをすすめたい。」という文が入っています。

当然のことではありますが、やはり、1つの楽譜を絶対的なものと考えるのではなく、比較・研究しながら自分自身でよく考えていこうと改めて思ったノクターンでした。

2018.01.12

表現する気持ちを持って弾く

こんにちは。

これからしばらくは寒い日が続くようですね。近隣の中学校で12月にインフルエンザがはやっていた話を聞きましたが、低温で乾燥した気候の時ははやりやすいもの。気をつけてくださいね。

 

昨日、バーナムピアノテクニックをレッスンしていた時のことです。バーナムの場合には、似た音型の曲がグループごとに何回も出て来ます。

ペダルの使い方と、ゆっくり弾いて自分の音に耳を傾けしっかり聴く、ということを学んでほしいと思い、「深呼吸」を取り出して課題にしています。

和音が展開しながら重なっていく曲です。ただ、強弱記号はついていません。

和音を追って、きちんと押さえて弾くだけでも、小学生の手ではなかなか難しい部分があります。お正月休みに頑張って練習したのでしょう。ミスなく弾けました。

ただ、強弱記号という手がかりがなかったため、後半になって少しクレッシェンドしたかった様子はありましたが、全体に音量の変化が少なく、残念ながらどう感じているのかはあまり伝わってきませんでした。

「自分ではどう感じた?」と聞くと、本人も「後半は少し盛り上げようと思ったんだけど…」という返事。「だんだん強くするとか、だんだん弱くするとか、いろいろな表現の仕方があるから、ここで何回か試してみて、自分でしっくりくるものを選んでみよう。何か変えて、工夫して弾いてみて。」と言ってから弾いてもらいました。

一回目は、だんだんクレッシェンドのパターンを3回くり返してみました。「どう?」と聞くと「なんか違う。」ということで、もう一度試してみました。

今度は、だんだん弱くするというパターンを2回くりかえした後、最後はだんだん強くしていく形。「どう?」と聞くと「これがいい。」

聞いていても、こうしたい、という気持ちで弾くと、明らかに伝わってくるものが違うことがわかります。練習曲ではあっても、「曲」としてまとまった美しいものになりました。

 

音楽は、音が集まっているもの。単音で一つ一つ響きのある音で弾くこと。次にそれが集まったときに、どう表現していったらよいか考えること。最後は自分で決めていくことになります。

それが楽器を演奏するということの難しさであり、同時に楽しさではないかと思います。

2018.01.11

腕の重みを100%ピアノの鍵盤にかける練習

こんにちは。

先日のレッスンで学んだことを生かし、今、「とにかくゆっくり練習する」ことを心がけています。16分音符が2分音符くらいになるように2小節くらいをひとまとまりに何回も弾くようにしています。

そうすることで、ピアノの鍵盤に腕の重みを100%かけた状態を作っていくわけですが、その過程でいろいろ気づくことがありました。

100%の重みをかけるためには、肩やひじで重みをささえてしまわず、手首、手のひらの内側まで重みが伝わるようにしていく必要があります。これが意外に難しいのです。

まず、私の場合は、どうしてもひじで支えてしまうくせがあります。これは、今の先生のところに行くようになってから意識して直そうとしている部分で、できてきた「つもり」でした。確かに以前よりは良いと思います。でも、ゆっくりと弾いているいるうちにまだ不十分であることがわかってきました。

同時に、「ひじ」を意識すると今度は肩に力が入って、肩で重みが止まっていることにも気づきました。肩ももっと内側に入れる感覚で重みをかけていくと、今までよりも、手に重みがかかってきます。

結局のところ、100%という基準そのものが、姿勢によって大きく変わってくる、ということを改めて意識することになりました。今まで100%だと思っていたものが、実はそうではないということ、それが分かった訳です。

 

もう一つは、そうやって100%腕の重みをのせようとすると、今度は、力をどの方向に抜いていくのか、ということも重要になってきます。

ついつい力が外に抜けていることにも気づきました。もちろん音型にもよるのですが、もっと鍵盤の奥の方向に力を抜いていくほうが重みがのりやすいことにも気づきました。特に親指の時がそうです。

外に力が抜けると、ひじが開き、ひじが開くと重みはひじで止まってしまう。全部つながっています。

 

きちんと重みをのせた練習の後に本来のテンポで弾くと、確かに安定してきます。トリルもきれいに入るようになってきます。

まだまだ課題は無限にでてくるわけですが、「ゆっくり練習」を積み重ねて、今の私なりに軽やかに、優美に、繊細に、モーツァルトの良さが生きる演奏にしていきたい。昨日のメナヘム・プレスラーの言葉、「演奏者は音楽の言葉を聞かなければならない。」を胸に、モーツァルトの言葉に耳を傾ける意識をもちつつ、練習していこうと思います。

 

2018.01.10

94歳のピアニストの言葉

こんにちは。

1月7日のクラシック音楽館の後半で、94歳のピアニスト、メナヘム・プレスラーのマスタークラスとインタビューが放送されました。

自宅にはテレビはないのですが、録画したものを見せてもらうことができ、その音楽に対する姿勢に感銘を受けました。

まず、ドビュッシーの「月の光」の演奏が紹介されていたのですが、弱音の中にある表現の繊細さ。1音1音に対して「こういう音を出したい、こういう音楽を伝えたい」と思いを込めて演奏している様子が伝わってきました。

番組全体から学ぶべきことがあまりにも多かったので、いくつかに絞ってご紹介します。

シューベルトのピアノ三重奏第1番をレッスンしている様子があったのですが、ある部分で、プレスラー氏はピアニストに対して、そこについている強弱記号を質問し、「ピアニッシモです」との答えの後、もう一度弾くように言いました。ピアニストは細心の注意を払ってピアニッシモを弾いたと思います。

それに対して「その音はピアニッシモじゃない。アタック音が入っている」との指摘。続けて「ピアノをなでるように。」と手の使い方を示していました。プレスラー氏の手は、手の内側の筋肉を使ってピアノの鍵盤をなでるように動いていました。

ただ、その動かし方は日常的にそこを使う習慣があって、筋力がないと難しい。やはりその後も、頑張っているのだと思いますが、ピアノからはコツンという固い音が聞こえてきてしまいます。「ピアノをたたかないで。なでるように。」と重ねて言っているプレスラー氏。

ピアニッシモは強弱を示すだけではなく、さらにその中の音色のイメージを伴うもの。そこの弾き分けはやはり難しい。でも、だからこそ、ピアニッシモに限りませんが、1音1音の質を意識していくことの重要性を改めて思いました。

 

インタビューからも彼の音楽に対する姿勢が伝わってきました。

「音楽が語らなければならない。演奏者は音楽の言葉を聞かなければならない。音楽で語ってほしいのです。細心の注意を払って。」

「ただ音符を弾くだけでは意味がありません。座って音を弾くだけなら誰でもできる。」

「指で語る、それでこそ意味のある演奏なのです。」

 

ご自身が自分に対する一番厳しい批評家だと言っていたプレスラー氏。5歳でピアノを始め、94歳まで厳しい姿勢でピアノに向き合い続けている生き方。ただただ「すごい!」としか言いようがありませんでした。

同時に、私自身も音楽に関わる以上は、私なりの「指で語る」を目指していこう、という勇気も持てた番組でした。

2018.01.09

いかに持ち上げるか

こんにちは。

昨日は、今年最初のレッスンに行きました。

モーツァルトのソナタを弾いたのですが、響きのある音をつくるために、手全体をいかに持ち上げるか、という意識で弾くことが重要だと言うことを学んできました。

前回の暮れのレッスンを受けて気づき、年末年始の間に自分なりに練習をして「今までよりも手のポジションを上げることが必要」と思って、上げたつもりではいました。

16分音符の細かい動きの中で、同じ音型が2度くり返される部分。1度目は強めに、2度目は弱めに弾きたい。ついつい、手は同じポジションに置いたままで、指先でコントロールしようとしていました。

先生から「指でコントロールするのではなく、手のポジションを上げることで強弱をつけてみて」「指(第2関節から先)は基本的にいつもかわらない、もっと弾かなくていいです」と指摘していただいて、同じ部分を弾き直してみると、響きに厚みが出て、上に上がってくる感じがします。

そうすると、今度は音が抜けてくる部分が出てきてしまいます。それは、「練習の時に、腕の重みを100%のせた状態でゆっくり練習する」ことが大切です。まず、100%のせた状態を身体に覚えさせ、そこから持ち上げていき、どこまで持ち上げられるか。それによって音の強弱の幅が決まってくるわけです。

その前の、「デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲」のトレモロの音型の時にも、「まず下げる。そこからスタートしてどこまで持ち上げられるか。」ということを言っていただいたのですが、両方合わせて、目指すイメージがよく分かりました。

一般的な奏法だと、いかにピアノの鍵盤を押すか、ということに意識がいきますが、この奏法の場合は全く逆であり、まず一番下のイメージを作った上で、いかに持ち上げるかという意識で弾いて音を、響きを作っていく。

そのためには、手首の下・指の付け根の筋肉が、コントロール可能な、支えられるような状態になっている必要があります。

また手と指の筋トレをしつつ、100%腕の重みをのせてゆっくり練習し…と地道に取り組んでいきます。

言葉だけではこういう感覚は伝わりにくいのも確かです。実際に手がかわり、弾き方がかわり、響きがかわることを聞き分けていく、レッスンの中ならではの大きな学びでした。

2018.01.08

二十歳になった教え子たちとの再会

こんにちは。

ピアノと全く関係のないお話ですが、とてもうれしかった出来事です。

今日は成人の日ですが、昨日、私がかつて中学校で教えていた時、担任した生徒たちの成人式と同窓会がありました。

20歳になったかつての教え子と再会。とても楽しいひとときでした。

最初のうちはよそゆきの顔をしているし、男の子は顔の輪郭がシャープになって、髪の毛も伸ばしているので(中学校時代はスポーツ刈りが多かった)、女の子は髪型もメークも華やかになっているので、誰なのかはなかなかわかりません。

でも、しばらくたつと中学校時代の表情が出て来るとあんなこともあった、こんなこともあったとかつての思い出もいろいろ出てくるし、今頑張っている話もたくさん聞けました。

手紙を取りに行く係なのに、帰りの会に間に合わなくて閉め出された話。それは、あまりにも毎日、帰りの会に遅れたからでしょう。

漢字のプリントの宿題が間に合わなくて、友達に書いてもらった。丁寧に書くとばれるから雑に書いて、と頼んだ話。どおりでいつも字が汚いわけです。確かに丁寧に書くとばれますね、誰の文字なのかは分かっていましたから。

「看護学校の寮に入って、病院の仕事もしながら勉強しています。」「経済学を学んで、今はマクロ経済を勉強しています。」「土木を学んでいて、世界に仕事場があると言われています。」「地域経済学を学んでいます。これからの社会のあり方は先生によってもビジョンが全然違います。」「パティシエの学校に行って、就職が決まりました。」「自衛官になりました。」「工場で車の部品を作っています。」「結婚しました。今は実家にいるけど、これからお金を貯めて独立します。」「大学の部活で絶対レギュラーになる。」等々。

家から出て暮らしている子たちは、みんな口をそろえて「親のありがたさがよくわかった。」と言っていました。当たり前のように、食事を作ってくれて洗濯してくれて。そういうことのありがたさ、大切さを実感して感謝しているそうです。

帰り際に「みんな、柔らかくなった感じがします。」と言った子がいましたが、それはその通り。逆に中学校時代は一番とがっている時代ですから。だからこそ、思いっきりぶつかるし、その中で大きく成長する時代でもあります。

人を育てる仕事に関わっているからこそ、味わえた一時でした。

2018.01.07

保護者のピアノ経験をお子さんに生かすために

こんにちは。

ここのところ、寒さが一段と厳しくなってきましたね。

 

お子さんにピアノを習わせるご家庭の保護者の中には、ご自分もピアノをお弾きになった経験のある方がたくさんいらっしゃいます。

私がうかがった限りでも、「中学校の時、合唱の伴奏を弾きました」という方もいらっしゃいましたし、逆に「私は小学校の間ずっと習っていたのですが、好きではなくて上達しませんでした。」という方もいらっしゃいました。

お子さんにとって保護者の方が経験者であるということは、とてもありがたいことです。

まず、多くの場合、身近に音楽に親しむ環境が既にあるということです。例えば、ピアノ演奏のCDがあったり、お父さまやお母さまがかつて弾いた楽譜があったり。これはどんな曲なのかな?と興味関心を持つきっかけになります。

2つ目にはお子さんのピアノのサポートができるということです。特に、お子さんが小さいうちは、先生のところで習ってきたはずなのに、家に帰るとよくわからなくなっている、ということもよくあります。

そういうときに、ご家庭の中で教えてあげることができます。

また、レッスンの様子を見ていて、このリズム打ちがよくできないな、ということに気づくことができて、お家で練習の回数を増やすこともできます。

 

一方、「親」の立場でお子さんにアドバイスをする時には、親子ならではの難しさがあります。

1つは、先生の意図とお父さまお母さまのかつて学んだ経験との間にずれがある時。音符の読み方やリズムなどは、そう違うわけではありませんが、手の使い方、姿勢、教本の進め方などは、教える側にも、教わる側にも個人差が出てくるところです。

私の場合は、レッスンを見ていて、何か疑問に思った時には、ぜひ意図を聞いていただきたいと思います。特に、ロシアの奏法は、日本での一般的な奏法と異なる部分があるので、遠慮なく質問していただきたいと思います。

もう1つは、成長してきたら(個人差もありますが、小学校の4・5年生くらいからでしょうか)、お子さんがアドバイスをいやがるようになってくる場合が多い、ということです。その時には、「聞かれたら答える」というスタンスに徹するということが大切です。

私の場合は、ピアノではないのですが、やはり経験があります。中学校に入ったとたん、息子が作文を全く見せなくなりました。

夏休みの宿題は、封筒があって夏休み中でも提出できるシステムだったらしいのですが、ある日「宿題の作文は?」と聞くと「もう提出した。そろそろお母さんに聞かれると思ったから。見せると何か言われるし。」と言われました。

高校2年生くらいから、書いたものに対してまた意見を聞かれるようになりましたから、自分がそれなりに自立した実感が持てるまでは、距離を置きたいものなのだな、ということの良い経験になりました。

親としては、「こうすればもっと上達するのに」という思いで言いたくなるのですが、そこはお子さんの成長の過程ということでぜひ見守っていきましょう。

逆に経験者のお父さまお母さまであれば、お子さんのレッスンをきっかけにご自身がまたピアノを弾かれると、お子さんにとっても良い影響が出てくると思います。